誰がしでもない自分

8月に入っちゃった。
何かと久しぶりに姉との旧交を深める時間、アドミ系の仕事や愛する姪っ子とのイタリアでの休暇やその直後のコロナ感染。
ある意味人生のいろんな側面を味わえた7月でしたが、仕事やヨガに関してはなかなかペースが掴めないままに終わってしまいました。
8月が来て、ふとエネルギーが内に向く時間が訪れ、それと同時に乱れてバラバラになっていた生活のペースがシュッと元に戻り始めました。
ヨガや瞑想は身体ともに浄化をしてくれ、そうすることで何が起こるかというと、、、
意識を高めてくれるそうです。
意識を高めるって何よ、私は意識高い系じゃ!と思う方も多いと思うのですが、ヨガでいうConsiousnessは少し違います。
まだひよっこヨガ練習生の私には経験をもとに、こうです!と一言で言い切ることはできないのですが、、、
人間には習慣や考え方、ありとあらゆるところにこびりついている執着があって、究極まで行くと好き嫌いもこれに入る。
食べ物の趣向や、お金、恋愛、主義、信念、善悪、もっともっとあります。
で、人はこれを自分で選んでやって、その中に自由があると信じてるんだけど、結局は意識的に選択せず執着の結果として選択したものは、結果としてずっと同じサイクルをぐるぐる回るという窮屈な生き方になってしまいますよ、という考え方。
この執着は人間の無知から生まれているものなので、少しずつConsciousnessを高めていくことで無知ゆえに選択しているものを選ばなくなっていく、、、だから、日々浄化をしていくことでConsciounedsを高めることが大事と。
7月の間、ただ自分を観察する時間、これが捻り出せず、身体ともに何か整理がつきにくくモヤモヤする時間が多かったように感じました。
ヨガは毎日ではないけれどなんとかこっちで20分、あっちで30分と何がしか時間は作っていたんですけど。
どう違うかというと、自分を観察する時間のヨガや瞑想は:
自分の考えてること、人間関係の軋轢、抱えているストレス、をどうすべきか、どうやったら解決できるか、誰が悪いか、と考えようとする自分を経て、あ!答えを見つけ出そうとしてる!ってところに気がつく。
自分は今、これが上手くいかなくてイライラしている、誰かを責めたいと思ってる、納得がいっていない、という気持ちに気がつく。
気がついて手放すと、私はなにでもない。
今はだだここでポーズを取って息をしている存在。
猫や草や虫と同じようにこの地球に生を受けた一つの生き物であるだけの存在なんだなと感じる時間が訪れます。
その時間が私に取っては整理の時間なんです、多分。
答えを出さない、出せない、出すものではない、コントロール出来ない、する必要もない、頭で計算して分かろうとしても分からない、、、
何様と思ってたんだろう。
ただここに間借りして生きてるちっぽけな存在なのに、、、。
卑下してるように読めるとは思うんですけど、そうじゃなくて、そこが私という生き物のベースなのに、頭はもっとすごい生き物だと思ってんですよ、笑笑、自分のことを。
それがたくさんのストレスとプレッシャーを自分にかけてしまうんですね。
で、ヨガの練習の後の瞑想をして、目をあけると深い所から呼吸をして、ああ、本当にこんな存在で良かったな、と思うんです。
心地いいんです、誰がしでもない自分が。
今の社会はいささか不器用な自分にはペースが早過ぎてたまに見失ってしまうけど、こうして自分の存在がとても軽く、シンプルなものであると知ることが幸せにつながる、なんてすごい秘密を4500年も前に理解していた時の賢人。
私にとっては現在のどんなテクロノジーよりもすごい発見に感じてならないのです。
今日もヨガが練習できて良かった。
感謝の気持ちをこめて。
なますて。